忍者ブログ
今日の出来事日記
[16]  [15]  [14]  [13]  [12]  [10]  [9]  [8]  [7]  [6]  [5
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

浅田真央は「鐘」に負けたくなかった。スケーターとして試され、悩み、それでも最後まで懸命に孤独な氷の上で打ち鳴らそうとした。SP2位から金妍児を逆転することはできなかったが、戦い抜いた果ての銀メダルだった。「初めての五輪はすごく悔しかったですけど、初めてのことばかりで、すごくいい経験になったと思います」。

今季のフリーの曲を決める際、もう一つ候補があった。フランツ・リスト作曲「愛の夢」。優しい曲だった。タラソワ・コーチが昨季から温め、浅田も気に入っていた。でも何かが足りない。大きなものに挑んでいないような気がしてやめた。

タラソワは多くの五輪金メダリストを育てた。98年長野のクーリック、02年ソルトレークシティーのヤグディン。彼らには後世まで語り継がれるようなプログラムがあり、タラソワが手掛けたものだった。浅田は「鐘」に、それを求めた。

乗り越えなさい―。タラソワは浅田に短い一言を託した。重厚で、腹の底に響くような曲。10代前半で彗星(すいせい)のように現れ、無邪気で天真らんまんにジャンプを跳んでいた「真央ちゃん」のイメージとは懸け離れていた。真価が問われた。

外野からの声は聞こえていただろう。曲が暗過ぎる、五輪開催地の北米では理解されない―。ある国際連盟ジャッジも危惧(きぐ)していた。不振だったフランス杯とロシア杯を終え、さすがの名コーチも揺らぎ、迷い、悩んだ。「変えようか」。

浅田は反発した。「このままいきたい」。昨年10月末、ロシア杯で屈辱の5位に敗れた夜だった。生まれつきの負けず嫌いに、火が付いた。

やっていることに確信が持てなくて涙を流したこともあった。一番の理解者である姉の舞は「真央は毎年、一つの物語をつくる。みんなをどきどきさせたり、大丈夫かなと思わせたり。だから最後にすごく感動するんです」と言っていた。浅田のバンクーバー物語は、完結した。


浅田真央の談話 (フリーで)3回転アクセルを2回跳べたことはすごくよかったと思うけど、それ以外は全く満足していません。初めての五輪はすごく悔しかったですけど、初めてのことばかりで、すごくいい経験になったと思います。(金妍児は)きょうの演技を見て、本当に強い人だなと思いました。(時事ドットコム)

浅田真央はよく頑張ったと思う。最高です。
4年後はさらにレベルアップした彼女に会えることは間違いないだろう。
毎日寒い日が続いている。
私も風邪をひいてしまった。
こんな寒い時は常夏のグアム旅行沖縄旅行に行きたいと思う。
グアムに行った ら、やはりグアムオプショ ンツアーでマリンスポーツを楽しみたい。





PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
忍者ブログ [PR]